観もしないで「傑作なんだろ」とか言っててもしかたないので、観て来ました。「ミリオンダラー・ベイビー」。
うーん、傑作じゃないんじゃないかなぁ。最近ありがちな「傑作もどき映画」ではあるんでしょうけど、結局、「傑作」にはならなかったというか。韻を含んだエピソードとキャラクター造型、繰り返される重層的テーマ、ハリウッドの価値観に組みしないエンディング、帰納法、演算法、サイン・コサイン・タンジェントというか、とにかく映画ってのはこう作るんだよ的職人芸を駆使してるんですが、「許されざる者」や「ミスティック・リバー」で見かけた手法ばかりで、新しい展開としては、教会の中、神父様を前にして、メソメソとハナを垂らして泣くイーストウッドだけでしょうか。
ワタシの前の席にいたおばさんは、ヒラリーの折れた鼻に指突っ込んで治すシーンには目を背けて、イーストウッドが尊厳死を手伝うところでは目頭を拭ってたんですが、こういう人がこういう映画を、知り合いのおばさん2、3人に「すごくよかったわよー、奥様ー、おすすめです」とかメールしたりするのかなぁ。大きなお世話でしょうけど。
尊厳死を手伝うべく、イーストウッドは古いロッカーの奥からマグナム銃を取り出して、ホットドッグ頬張りながら、全身麻痺になったヒラリーの眉間を黙ってぶち抜いて去って行ったんなら、同じく尊厳死をテーマにした「カッコーの巣の上で」に、少し近づけたかもしれないですけど、まぁ、アカデミー賞はなかったことになるでしょうね。
しかし、こういう「傑作もどき映画」というものが、ワタシを映画ゾンビにさせた第一の原因のような気がします。いや、人のせいにしちゃいけないですね。ただ単に映画ばっかり観てきた報いなんで。
「傑作もどき映画」というものの歴史は、たぶん「ニューシネマ・パラダイス」からはじまってるような気がします。あの映画はあの映画で、ワタシは嫌いじゃないんですが、あの監督自身が、以降「傑作もどき映画」しか撮らなくなったのに合わせて、他の映画も、そこにビジネスチャンスとか嗅ぎつけて、大挙して参入してきたような気がします。その結果としての「セカチュー」とか「イマアイ」とか「デンオト」なんじゃないでしょうか。あ、「デンオト」というのは「電車男」のことですけど。
ちなみに、この「傑作もどき映画」の対極にいるのがタランティーノです。彼は「傑作」なんかどうでもいいんだと思います。まず「撮りたいもの」があるんでしょう。だから彼は支持されるんだし、「キルビル」とか撮っても、まだみんなに許してもらえるんじゃないでしょうか。
投稿者: いがらしみきお | カテゴリー: ドラマ